昭和47年08月11日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし、乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 私はこの教典を、こうして毎日皆さんに聞いて頂いて、いや聞いて頂くというより私自身が頂いておると言う事が本当でしょう。甘木の先代が、お結界に座られる時に、よし言われたと言う、「さあ、今からひとつ御理解頂こうかな」と言うて、沢山の人が御理解を頂こうと思うて御広前につめかけておりますとね。そして今から御理解を説かれるというのに、そう言うてお結界に座られたと言う事です。
 もう安武松太郎が皆さんに話を聞かせるというのじゃないのです。もう安武松太郎先生自身が、只、その安武松太郎の口を出ておるお話を自分自身が、成程成程と合点しながら頂いておられる。私の場合もそうです。もう言うて聞かせると言う事でもなければ、聞いてもらうというのでもない。大坪総一郎自身が頂いておるといった方が本当です。それはそうですよねぇ。毎日、いうなら新たな、新知識ですからね。
 仏教的にいうなら本当に今まで、聞いた事がなかった事をずっとこう頂くのですから、私自身もやはり頂いておることになるのです。私はそう言う様に、たったそれだけの薄っぺらなお道の教典を、いやこれ一冊ですけれども、只それ暗唱するとか暗記するとかだったら大した事はないと思うのです。その内容の深さ、内容の広さという事に触れてまいりましたら限りがない。
 恐らくは、私は一生この事を説いても説いても説き尽くせる事はない。お釈迦様があるお弟子に言われた言葉の中に、そういうような意味の事を言っておられるですねぇ。「髪の毛を百に割って、それを大海の水につけるそのしずくと大海の水はどちらが多いか」という事をいわれたそうです。「それは勿論大海の水です」と言うかと。実は自分自身が今説いておる事は、いうならば、その大海の水の中の一滴もない。
 自分の髪を百に割って、そしてそれを水につけてそのしずくがたもないと仰ったそうです。だから天地の事は知りて知り難きとういのが本当なのである。それをお互いの信心によって、そんなら教祖生神金光大神の信心をひとつの基礎として、その信心を基にして、段々頂いていくうちに、その金光大神の教えておられる事の広さ深さに驚く。そんなら驚いておる私の、そんなら、信心がまあだ私が一生かかったって説きあかせまいというのですから、実際はそれが本当なんですよ。
 昨日東京へ行っとります竹内先生のところの長男の正教さんが東京から帰って来ております。それがここでお取次を願う時に頂きました事ですけれども、自分の見える視力の範囲ですね、又自分の耳で聞こえてくる、聞こえる範囲というものはもう本当にわずかなもんだというのです。例えば人間の知恵とか、力とかいうものはね、そのようなもんだと、それがこれが最高の思想であるとか、これが最高のもんだと言う様な事は言えもしないし思いもしないのだと。
 本当言うたら、自分のいわゆるそうした視聴力というですかねぇ、見る範囲、聞こえる範囲というものはわずかなもの。それをいかにも、本当の事にように思い込んだりするところに、思い上がりがあるのだというような意味の御理解を頂いたんですけどねぇ。私はいつも思うのですけれども、私がこうやって日々説いておる事は恐らくは教祖金光大神も御承知ではなかったろうと思う事です。
 これは私は、お話をするときによく思いますね。例えばこの五十八節のもそうですけどその前に57節のところに「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と仰る様な御教えなんかは、もう教祖金光大神その人が知ってはおられなかった。この真意というものは、それは、只神様をたよって行けよ、神様にすがって行けよということなんですよね。
 最後に楽じゃという意味なんか、教祖自身わかっておられなかったと思うのです。御自身体験はしておられたでしょ、けれども御自身体験はしておられてもそれを言葉に出してこれが素晴らしい事だと思っちゃおられなかったんです。だからね私は、信心させて頂く人達にですね「楽ですか」と「いいえ難儀なことばっかり」「そんならあなたは金光様の信心はいっちょんわかっとらんたい、神を杖についとらんたいと極言するなら、そげん言えれるわけです。この教えだけでも。
 もし楽でないならば、んなら神を杖につけば楽とはっきりおっしゃっておられるのにそれをもし楽でないならば、あなたがそうにゃ、金光様、金光様ち言いよるけれどもまあだ金光様を杖についておると言う事ではない。金光様を、神様を杖についたら、もうそれこそ安心じゃと、楽じゃと。きつい事ななければ心配もない。不安もない。不安な事も勿論ないという程しのそれには金の杖とか、木の杖とか表現しておられるでしょうが。金の杖をつけば曲がる。確かに曲がる。
 そこまでは知っておられた。木や竹は折れると言う事は知っておられた。けれどもそんなら、この金の杖という事を、例えばそんならどのように、経済力を持っておるからと言うて、その経済力というものは、お金がどんなに沢山あったからと言うて、人間は楽になれるもんじゃないとおっしゃっておられるのです。いや金があればある程、楽じゃないと言うて間違いないかもしれません。
 むしろ本当にその日暮らしの安心のおかげ頂いておる者が、よっぽど安心のおかげ頂いとる 金があればある程不安である、心配である。どげんして殖やそうかじゃなくて、人からどういうふうにしてこれが又、摂取されるような事がありはせんじゃろうかといったような事を警戒する。木や竹は折れるという事でもそうです。成程木や竹は折れる。けれどもこれは私がいつも言っておるようにですね、どんなに心の強い人であっても、木は心と言う事というふうに私しは頂いておる。
 だからそう言う事は教祖御自身ですらが説明をなさっておられないし、頂いてはおられない。これは教典全般にわたっていつもそれを感ずる事です。合楽でだから皆さんに聞いて頂いておる事は、実をいうたら、だから教祖金光大神その人も、実際は知ってはおられなかったんだ。只、その御教えの素晴らしさというのはですね、それこそ、どれ程でも深められ、どれ程でも広げられてゆけれる内容を持っておる事が素晴らしいんです。教祖金光大神の御教えは。
 私がそんなら一生かかって例えば広げていくそれでも、そんならお釈迦様じゃないけれども、自分の髪の毛を百に割って、それを海の水につけて、それから落ちてくるひとしずくがたもないという程しに、天地の事は知りて知り難きものである。本当の事と言う事はだからありえない。だから本当の本当を求める、いわゆる真理を追求していく。そういう例えば難しい事を、そんならお百姓でおありになった教祖金光大神が知っておられるはずがないというのが本当です。
 ただしその一言の例えば金の杖と言う様な事の中からにでも、木や竹のと言う事の中にでも、最後に神を杖につけば楽じゃと言う事が、どのような広い深い味合いを持っておるかと言う事を、教祖御自身も説きながら、御承知でなかったろうと言う事なんです。只、只、広げていけば行く程、深めていけば行く程限りがない。金光様の御信心は庶民的だと。と言う事はどう言う事かと言うと、すこし程度の高い人にはあんまりむかんと言う事を言っておりますですね。
 私はまだ読んでませんけれども、「金光大神の生涯」なんかも、いわゆる庶民の宗教というような意味に於て、今までかって教団外の人が書いた本に、これ程行き届いた本はなかろうと、皆んなが読んでいっておるくらいに素晴らしい本らしいですよ。けれどもそれは、どこまでも、そんなら私が合楽で金光大神の御教えを説いておる事は、お釈迦様も説き得なかった事であろう。キリストももぢろん説きえなかった事であろうと言う様な事を、私は皆さんに聞いて頂いておりますからね。
 実はそんなこつじゃないです。しかももっともっとまあだまあだ、広い深いこれはもう限りがないのです。と言う様なね、観点から私共が御教えを頂いておる事は有難い事であると同時に大事なんです。そういう例えば、天地金乃神様のお心というか、御教えというのは、そんなものであれはあるからこそ、教祖金光大神その人もね、これですんだとは思いませんと。いつもそういう姿勢をとっておられたという事です。
 もうどれだけ真心を尽くしても、どれだけ形の上の精進をさせて頂いても、神様これですんだとは思うておりませんと。だから、どこにお粗末、御無礼があるやらわかりません。自分で気がつかない中にそういうお粗末、御無礼がある事に違いはない事を自分で認めておられます。そのへんのところを最近の教団の方達の言葉で言うとね、肯定しなからなけれは否定もないと言われとる。教祖生神金光大神の信心は、こうだと肯定してない。そうじゃないとも言い切ってない。
 こういう例えば否定もなからなければ、肯定もない世界、それが私共金光大神の教えを頂いていっておる、教えを受けておる者の世界である。ちょっと難しゅうなりましたねぇ。そうなんです、私がこうやうて皆さんに聞いて頂いておる事は、教祖金光大神その人も、実を言うたら御承知でなかった。私が説きよる事を、「いゃあ、大坪総一郎がええ事説いてくれよる」と思いよんなさるじゃろうと思います。
 そうどころじゃなか、私もそういう事知らなかった。私が説いとった御教えには、そいう深いものがあるのかと仰っておられるかも分らんね。だからこれは私だけの、専売特許と言う事ではない。お互いが道の信心を教えにもとずいて信心を進めていくところから、新しい金光教の分野というものが開けてくるのです、新しい、いわば信心が開けるのです。これは、どういうふうに急変する時代思想の中にあってもです、そこにちゃんと教祖金光大神の教えておられる中から出てくるごとなっとる。
 しかも出てくるというのは、それはもう本当に大海の中から、一滴のものを引き上げた程しかない。まあだまあだ、分らん所はどれだけあるやら分らん。そういう頂き方で今日の御理解を頂きますと、人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うてもとこういう、だから自分は神様がちゃあんと見てござる。神様の見てござる世界に生きぬく事が信心だから、私は泥棒をしとらん、乞食をしとらんのだから、いくら言われても神様が御承知の世界だからと言うて辛抱していくという意味だけではなくてです。
 今日私が申しますような内容を持って、そんなら人から盗人じゃと言われた、乞食じゃといわれた。いやもっとひどい事を言われたに致しましてもです、それこそ、もうひとつの世俗の言葉でいうならば、火の気のないところには煙は立たんのである。そういうものをです、自分の心の中に頂いていけれると言う所にです、成程神様は神が見ておるとおっしゃって、自分は乞食はしとらんから、泥棒はしとらんから、人からどげん言われてもよかと言うて、只辛抱しておるというだけでは、只おかげの世界だけです。
 けれども、それを今度は本当に自分自身の心の中に、火の気のないところには煙は立たんと言った様な、自分の心の上に、いよいよ顕微鏡を当ててみるような、あり方をさせてもらうと、成程、これが乞食根性であろう、これが泥棒根性であろうと言う様なものが、もう本当に、えっちゅうごとあるのに驚くです。自分ながらもう自己嫌悪にかかろうごたる。だから自己嫌悪にばっかりかかっとったら出来ませんから、だからそういう、そんなら自分という者を見極めたところから頂けるのが改まりの世界です。
 昨日お月次祭にも皆さんに聞いて頂きましたように、お礼の甘木とか、願いの玉水とか、お詫びの高橋とかと、当時言われた有名な事なんですねぇ。願いの玉水、お礼の甘木、お詫びの高橋と、当時日本一といわれた先生方を三つ集めて、それぞれの信心の風というものがある。甘木などは、もう徹底してお礼八部に願い詫びは二分といわれるくらいですから、願いとかお詫びとかはもう一分づつ。
 もうお礼が殆どと言われた。それが玉水あたりになると、願って願ってもう、すさまじいまでの願いをたてられるだけでなく、すさまじいまでの願いが成就していったおかげの世界が、今の玉水王国です。今度の○少だけでも、玉水は五百名来とったげな。うちは青年会の方達入れてから五十名もうてんでお話にならない。いわゆるすさまじいまでの御ひれいと言うか、その願いというものがいかに白熱した願いであったか、神様を揺り動かす程しの願いであったかという事が感じられます。
 徹底いつも詫びておられるのだろうかとその風貌からでもそれを感じた高橋正雄先生の場合でも、やはりお詫びの高橋といわれたはずだと言われたような「見ること見ること自分を見ること」というような言葉を残しておられるくらい。だから泥棒と言われていつ俺が泥棒したかと言わずに、自分自身の事を見ること、見ること、ところがそこには、泥棒根性もありゃ、又は乞食根性もある事に、それこそ自分ながら辟易とするという程しであるという事。
 ははぁあんなふうに言われるが大体合楽と言うところは、どう言う所じゃろうかと、お礼に入っとるだろうか、お詫びに入っとるじゃろうか、又願いに入っとるだろうか。何か独特のものがあるとじゃろうと、ふっと私が思うたら、神様から頂くのがね、丸少のマ-クを頂いた。こうやって丸少と書いたこう言う風にもう、そういう人達は一人前、大人になっておられる方達ばっかしりなんだ。まあだ合楽は、それこそ海のものとも、山のものとも分らない。
 まあだ現在の合楽のいわば少年少女会くらいのもんだと言う事なんです。それは今の合楽の少年少女会の人達が、今ごろから修行終わった時に私と家内、若先生夫婦どんがよばれました。そん時に私は本当に感動した事があった。もう本当に子供とは言いながら、思われないくらいに信心修行を完了して、そしていよいよ丸少全国大会に参加する事の為のそれを精進する姿も触れて、この中から未来の総代さん達も出るだろう、未来の合楽を背負っていく人達が出るかもしれないと思うたら感動した。
 けれどもそれはね、子供の時にはそうだったかもしれんけれども、例えば次第に大きくなっていくうちに虫がつくかもしれん。信心を止めてしまうかも分らん。まあだ今は素晴らしかっても、海のものとも山のものともわからんというのが、現在の丸少の姿であると同時に、合楽の信心だって同じことなんだと言う事。ひとかどの信心と、自分で思うとるもんだから。そんなら合楽の信心は神様にお礼とかお詫びとか、どれに入っておるだろうかと思うたら。まあだそれは一人前になった人達の信心であって。
 まあだ合楽は今丸少程度ぞと神様が教えて下さったような感じがするのです 成程そう思うてみりゃ、丸少どころじゃないと言うことを思う。私自身の信心から。だから問題はこれに虫がつかんように、いよいよ青年にも壮年にも育ってゆかなければならないと言う事をまあ切に思うわけであります。私共は神様から、いろいろ指摘を受けます。そん時にです、そう言う事はないと言う事のあるはずがない、その事を私共は取り組ませて頂くことによって、改まらしてもらうという事。
 神様がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよと言う事は、如何に馬鹿と言われても、阿呆と言われても、いや乞食と言われても、泥棒と言われても、神が見ておるから、辛抱せよと言われるだけの事ではなくて、しっかり信心の帯をせよという事はです。いよいよ信心を深めてゆけよという事なんでしょう。しっかり信心の帯ををせよという事はです、泥棒と言われりゃ、泥棒のようなものが心の中に住んでおった事を、気づかせて頂いて、それを取り除いていこう、改まっていこうと言う所にです。
 成程あの人が私に泥棒と言うたが乞食と言うたがあの人は、あの人ではなかった。それこそあれは、神様の声であった。神様だったと言う事になるのじゃないでしょうか。先日も、私の目の前である方が、もうほんとにそげんまで言わんでもよかろうと言う様な、えげつない事を言われた。私が横で聞きよってハラハラするごたった。それは本人としては、こげん悔しい事はなかろうと思うた。けれでもね、けれどもねけれども私はその人の言葉をです、あの人が言いよるとじゃない。
 神様の声と思うて聞いたらです、これはあなた自身が、本当に改まらなければならない。これから一段と大きくも、広くもなっていかせられる。あれは神様のお言葉としても頂けん事はないよと言うて話した事です。それ以来、段々それが本当にそうであるいう事も、自分も感じてゆかれて、まあようこそ、ああゆう、えげつない事とは思ったけれどもです、言われた事に大しまあだお礼とまではいかんでも、その事に一生懸命取り組んで、自分自身の心の中に。
 それこそ顕微鏡をあてて眺める思いでの、生活が最近出来ておられます。もうこっちが見とってわかるんです。もう実に謙虚になられました。以来、その方が、もう本当にいつも謙虚になられた、もうこれだけでも素晴らしいと私は思います ですから、ふつうでいうなら、そこでヤリヤリ喧嘩でもするところでしょう。もうそれだけででも、信心は止めてしまったっちゃよかかもしれません。
 けれどもそこから、一段と信心が進められる。その事を私は、ここではしっかり信心の帯をせよというのは、そういう事ではなかろうか。あれにあんな事を言われた。いっぺんは言うて返さにゃならんなんて、あってよかろうはずがなかです。しかもそれがです、神様の声として頂けるようなおかげを頂いたらどんなに有難い世界がそこから広がってくるだろうかと思います。
 私共が,これがやはり人間の思い上がりというものはないごとあって、ある証拠ですね。昨日、お月次祭で話したお話なんかそうなんです。もう合楽も一流教会並に、自分で考えとる。だから、うちの信心はどげな流じゃろうか。お礼流じゃろうか、お詫び流じゃろうかというふうに思いよる。そしたら、神様から、いっぺんにポ-ンと蹴落とされたような感じがする。
 お前は何ち、言いよるかと。あの人達は大人ぞ。お前はまあだ、丸少ぞ。合楽の信心はと、蹴落とされたみてです、本当に○少どこじゃなかろうかと私が気づいた。だからこれに虫どもつかせるような事があっちゃならん。いよいよお育てを頂かなければならないという信心がこれから出来る事が有難い思うのです。そこから私共は、一段と信心の帯をさせてもらわなければならない。私共の見る世界、私共の聞こえるくる世界なんてもうそれこそ本当に狭い範囲である。
 その中で自分は如何にももの知り顔に、それが本当だと言ったような、考え方がよかろうはずがない。だからどんなにお話をしておっても、お話をしておってもこれはお話をしてるのじゃない。お話を聞いておる姿勢、私は昨日その事を本当に思いました。甘木の親先生がお結界に座られる時に、さあ御理解又ひとつ頂こうかなと、自分自身で自分自身の心にそう言い聞かせておられたというお話を聞いて。
 そう言う事がです。今私が申します、お話はしておるけれども、お話をきかせて頂く、姿勢でおられたからこそ、あのような大きな力も、御比礼もお立てになる事が、出来たんだというふうに思うです。皆さんでも同じこと、私自身がまあだ、丸少の信心、それは例えば今、合楽の丸少にみるように、素晴らしいなあ、このまま育ったら素晴らしかろうと、例えば、私どんが思うように。
 合楽の信心もある意味合いでは、そうい見方をされておるむきも、私はあると思うです。ある先生が九州一を目指して下さいと手紙下さった時に、私は何か、それこそむかっとした。ぞうだんのごと、こっちは日本一を目指しておるところへと言う様な、それがまあ慢心なんですよねぇ。それは目指す事はひとつも悪い事ではない。慢心ではないですけれども、そんならどの程度から育っていくかという事。
 やはり一番小さいところから、いわゆる丸少どころから。私共の信心が育って行く事によって、本当の信心が身についてくるという事になるのです。例えばこの御理解は、どんな事を言われても、どういう事があっても、それで腹を立てるような事をするなというだけではなくて、神様が見ておるぞと。なぐさめられるようなものではなくて、そう言う事に私共が直面した時に。
 本当に自分自身の心の中に、火の気の無いところに煙は立たんという自覚にたって。私共がそれを、自分の心の中に発見して、それを改まっていくと言う事を、今日は信心の帯をするという事はそう言う事ではないか。だからそれを例えば神様が見てござる世界だたからと、只辛抱していくだけではなくて、そこからおかげで一段と改まる事が出来たと、お礼が言えれるような信心を頂きたいと言う事を、今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。